ダンテ『新生』講義⑤〜「歌」の擬人化〜打ち明けられるベアトリーチェへの想い〜

【擬人化】(ぎじんか) 人間でないものを人間になぞらえて表現すること。

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今でこそ日本のお家芸として世界から持て囃されている擬人化の技術だが、ヨーロッパにも勿論古くからこの技術は存在していて、我らがダンテもこれを活用している。ここまで「新生」を紹介していく中でごく自然に登場していた、ダンテにとっての恋愛マスター、「アモーレ(愛)」もその一つだが、今日はもう一人のキャラクターを紹介したい。

詩人であるダンテにとっては最も身近な存在であったろう、「歌」である。
原文では"BALLATA"バッラータ。ここではせっかくなので、彼のことを原文通り「バッラータ」と呼ぶことにしよう。


バッラータは今、ベアトリーチェの前に立っていた。ご主人(ダンテ)の秘められた恋心を伝えるためである。横ではお目付け役のアモーレが彼が口を開くのをじっと待っている。緊張で胃が痛い…(と思っていたかどうかは定かではないが)。どうしてこんなことになったのか。時は数時間前にさかのぼる。

***

ベアトリーチェへの崇高な愛を隠すため、アモーレから新たな盾となる女性を紹介されたダンテは、この女性へのニセモノの愛を歌にして公表し始めた。(<新生①>から読んでくださった皆様はもうダンテに随分と感情移入できる程にはメンタルが鍛えあげられているのではないだろうか。)
これで一安心、そう思って日々を過ごしていたダンテがある日、道端でベアトリーチェにばったりと出会う。彼が何よりも欲しているもの、それはベアトリーチェの「会釈」であった。<新生②>に記したが、ベアトリーチェの会釈を受けた時のダンテはそれはもう天にも上る気持ちで、マトモに歩けないほどであった。会釈の破壊力をダンテは一章を割いて解説している。その中で、恋する者なら誰もが同意するであろう一文を紹介する。

Dico che quando ella apparia da parte alcuna, per la speranza de la mirabile salute nullo nemico mi rimanea, anzi mi giugnea una fiamma di caritade, la quale mi facea perdonare a chiunque m’avesse offeso; e chi allora m’avesse domandato di cosa alcuna, la mia risponsione sarebbe stata solamente ’Amore’, con viso vestito d’umilitade.

彼女がどこかに現れる時にはいつも、その素晴らしい会釈を受けられるという期待によって、私には全く敵がいなくなった。代わりに慈悲の炎が燃え上がって、私を攻撃した者皆を許す気にさせたのだ。誰かが私にその時どんな質問をしたとしても、私は恭しい面持ちで「愛(アモーレ)」とだけ答えただろう。

<「新生」第11章より>

実際に隣にいる友人に話しかけて、振り返りざまにただ「アモーレ」と穏やかな顔で答えられたら衝撃で声も出なくなりそうだが、憧れの人に会える、そしてこちらを見て挨拶をしてくれるかもしれない、そんな期待に胸を膨らましているときの自分は「無敵」だ…。これは誰もが「わかるわかる!!」となるポイントではないだろうか。

しかしそんなダンテにとっての生命の源と言うべき会釈を、この日、ベアトリーチェが拒んだのである!
理由は言うまでもない、ダンテが次々と他の女性に宛てた詩を贈るものだから、気の多い男だという悪評がたち、ベアトリーチェもまた、ダンテを不誠実な男と考えたのだ。

…悲しみに暮れるダンテ。そこにふたたびアモーレが現れた。そしてなんと、こう言うのだ。

Fili mi, tempus est ut praetermittantur simulacra nostra.
「我が子よ、今こそ我らの幻影を捨て去るとき。」

隠れ蓑を捨てて、ベアトリーチェへの想いを明かすべき時が来た、と言うのである。

お前マジか、と全読者がアモーレに問いたいことだろう。ここまで話をややこしくしておいて、今更…?と。
しかしダンテは何と清らかな心を持っていることだろう、そのアドバイスを真っ向から受け取って、ペンを取ったのだった。

***

こうして生み出された「バッラータ」は、ご主人の一世一代の告白という大役を担ってベアトリーチェの元へやって来たのだった。これだけ別の女性を好きなフリをしておいて、実は貴女の事だけ思っていました…なんて歌を歌うという戦略の良し悪しはわからないが、なんたって作り手は詩聖ダンテ。バッラータがアモーレの方をちらと見る。深く頷くアモーレ。ひとたび口を開いたバッラータの姿はそれは気高く美しく、その大役を見事に果たしたのだった…。

“Madonna, quelli che mi manda a vui,
quando vi piaccia, vole,
sed elli ha scusa, che la m’intendiate.

~中略~

“Madonna, lo suo core è stato
con sì fermata fede,
che ’n voi servir l’ha ’mpronto onne pensero:
tosto fu vostro, e mai non s’è smagato”.

「奥様、私をあなたのもとに遣わした男は、もしあなたのお心にかないますなら、私の口を介して言い訳をお聞きいただきたいと願っております。」
「奥様、あの男の心はたいそう固く、あなたにのみ遣えることを望んできたのです。初めてあなたと出会ったその瞬間から、ずっとあなたのもの。一度たりともその誓いを破りはしませんでした…」
<「新生」第12章より>

つづく

ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの『ベアトリーチェの会釈』部分スケッチ。天使の姿で描かれているのが「アモーレ」だ。神妙な顔つきをしているところが実に「新生」のアモーレらしい。
Study for the group in the right background in 'The Salutation of Beatrice', 
based on the sonnet 'Vita Nuova'; 
Love seated on a well, sheltering Dante beneath his wings.


<新生⑥>はこちら

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