「風立ちぬ」とダンテ

先日金曜ロードショーで「風立ちぬ」が放送されるということで、これは一年に数えるほどしかない「ダンテ」「神曲」「ベアトリーチェ」が検索されるチャンスに違いない、と思い、何か記事を書こうと思ったのだが、如何せん気づくのが遅すぎた。(22時、金ローは21時からである)
とりあえず、少しでもダンテのプロモーションになるかもしれないので投稿はしておこう。

宮崎駿監督はこの作品にさまざまな文学作品へのオマージュを散りばめている事で話題になっていたが、私は「ダンテとベアトリーチェがモチーフになっているらしい」という噂を聞いてそればかり気になっていた。しかし当時は結局映画館へ足を運ぶことはできず、その後も観る機会がないままであった。そして先日の金曜ロードショーは結局後半1時間しか観ることができなかったのだが、このダンテモチーフという噂だけで充分感動することができた。というか、菜穂子さん=ベアトリーチェが登場しただけで泣けた。ベアトリーチェはダンテの最愛の女性で、若くして亡くなり、「神曲」では地獄の入り口で絶対絶命のダンテに対し、はるか遠く天国から救いの手を差し伸べてくれる存在だからだ。菜穂子さんが若くして死んでしまって、でも二郎の魂を救ってくれる永遠の女神として描かれていることは間違いない…。

そんなことを考えているとあっと言う前に物語は終盤に。
草原に立つ二郎に、死んだ菜穂子の「生きて」という声が聞こえるシーン。
これについて、宮崎駿監督が当初この草原を「神曲」の煉獄の頂上に見立て、そして菜穂子の言葉をダンテを天国に導くベアトリーチェの存在と重ねていたそうで、「来て」と菜穂子に言わせるつもりだったところを、それだと二郎も死んでしまうことになる、という理由で「生きて」に変えたそうだが、ダンテファン的には、「来て」のままでも良かったかな、と思ってしまった。なぜなら、神曲のダンテは生身の人間として、生きたまま天国を旅するからだ。地獄でも煉獄でも同様だが、ダンテは死者たちの中にある唯一の生者なのだ。天国へ上っていくのは死ぬからではなくて、最大のクライマックスである「生きて神を見る」瞬間に向けての喜ばしい一歩なのである…!

とここまで熱く考えてみて我にかえったのだが、生きたまま二郎が天国に行ったら、それはオマージュどころではなくもはや「神曲」そのものではないか。そしたらもう、一から「神曲」をアニメ化したらいいんじゃないの、と(割と本気で)思い、あれこれ考えてみたが、二郎はダンテではなく、天国に行くには死ぬ設定にせざるを得ないわけで、やっぱりここは「生きて」とするしかなかったんだろうな、という考えに落ちついた。

結論。

『神曲』なんて一生懸命読むからいけないんですよね(笑)。
(宮崎駿監督の引退会見より抜粋)


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