ウェルギリウス大先生の町・マントヴァ

駅に置いてある旅行会社のパンフレットが目にはいったので、イタリアツアーの載っているものを手に取ってパラパラとめくってみた。

『ボンジョルノ!イタリア周遊8日間』。やっぱり初めてのイタリアはミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマの鉄板コースが人気だ。
『麗しき南イタリア9日間』。海辺の町・ナポリやアマルフィ海岸で青い空と海に囲まれてワイングラスを傾ける休日…そんなコースはハネムーナーにもぴったりだ。

イタリア専門の旅行会社に勤務していたこともあり、今までイタリアには数多のカップルを送り込んできたが、やっぱり初めてのイタリア旅行という方が多く、メジャーな都市をリクエストされることが多かったし、マイナーな都市を選んでしまうと、列車の乗り換えというハードルが待っている。そんなわけで、当時はあまり積極的に勧めることはなかったのだが、今なら自信をもって、声を大にして言いたい。

たとえ初めてのイタリア旅行でも、たとえ乗り換えに失敗して、それが元で喧嘩して破局したとしても、マントヴァには行くべきだ。

ミラノと同じくロンバルディア州に位置し、三方を湖に囲まれた霧の町、マントヴァ。
マントヴァを北イタリアルネサンスの中心地として多いに盛り立てた、フェラーラ出身のイザベラ・デステが、この町を治めるゴンザーガ家に嫁いできたのが1490年。

でも、ルネサンスよりもずっとずっと昔、マントヴァ近郊の村に一人の偉大な詩人が誕生する。
ローマ建国神話でラテン文学の最高傑作ともいわれる『アエネーイス』の作者であり、そしてダンテにとっての永遠の憧れであり、『神曲』の影の主人公と(私に)呼ばれている、ウェルギリウス大先生である。

『神曲』地獄編の第一歌、暗い森に迷い込み、三頭の獣に行く手を阻まれて絶体絶命のピンチに襲われたダンテを救うため、長い沈黙を破って地獄から彼の前へと現れるウェルギリウス。このとき、ウェルギリウスの口からまず聞かされるのが、まさに「マントヴァ」の町の名前なのだ。

Rispuosemi: "Non omo, omo già fui,
e li parenti miei furon lombardi,
mantoani per patrïa ambedui.

彼が答えた。私は今は人ではないが、かつては人であった。
両親はロンバルディアの者で、
いずれもマントヴァの出だ。

「いまは人ではない」…哀愁漂うこのセリフの破壊力といったらない。
紀元前に生まれたため、キリストの存在を知る事なく生を終え、キリスト教の信仰を持てなかった(当然なのだが)ために、苦しみもなく、かといって喜びもない地獄の「辺獄」で1000年以上の時を過ごしていたウェルギリウス。彼が自身の正体を明かすとき、まず両親と、ふるさとについて語るのである。

マントヴァの名前は、煉獄編の第六歌で、生前の罪を清めながら煉獄の山を登る、吟遊詩人のソルデッロの口からも語られる。煉獄を旅するダンテとウェルギリウスに興味をもち、ソルデッロがウェルギリウスに(それがかの有名な大詩人であるとはつゆ知らず)、出身地を尋ねたのである。

「マントヴァ」とウェルギリウスが言うやいなや、ソルデッロは死後の世界で運命的に出会った同郷の詩人に抱き着いて喜びをあらわにした…。

そんなわけで、マントヴァが『神曲』から受けた恩恵はかなり大きいと思う。
マントヴァで一番の見どころであるドゥカーレ宮殿が面しているのは、その名も「ソルデッロ広場」。この詩人の名がついたのは、間違いなくダンテの功績だろう。

マントヴァにはもちろん、「ウェルギリウス広場」もある。

Piazza Virgiliana (ウェルギリウス広場) のウェルギリウス像(左)。
この広場の背後にはマントヴァを囲む3つの湖のうちの一つ、Lago di Mezzo(メッツォ湖)が広がる。

そう、既にお気づきのとおり、現代のマントヴァにウェルギリウス本人の足跡らしいものは特に残っていない。
それでも、この詩人がこの町の周辺で生まれたことは事実だし、この町の人々はずっとウェルギリウスの事を誇りに思ってきたのだ。
その事実を思うだけでも、足を運ぶ価値は有り余るほどにある。

おまけ!(ダンテマニアにとってはオマケだけど、実際はマントヴァの一番の見どころだと思う。ドゥカーレ宮殿にある、アンドレア・マンテーニャ作、Camera degli sposi『婚礼の間』の天井画。





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